2014年7月5日(土)

六本木にあった大名屋敷

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 雑誌「東京人」2014年6月号に、大名屋敷の現在の姿が特集されていました。真っ先に書いてあったのが、六本木にあった大名屋敷です。長州藩毛利家の下屋敷だったところが、現在は東京ミッドタウン。長州藩毛利家の分家の上屋敷だったのが、六本木ヒルズ。宇和島藩伊達家の上屋敷だったのが国立新美術館。六本木駅から江戸城桜田門から3kmくらいと職住接近ですので、大名家の屋敷を作るには好立地だったのでしょう。

1.六本木ヒルズ:長門長府藩毛利家の上屋敷

 長門長府藩は毛利家の分家だが、関ヶ原の後に毛利本家が減封で防長2国になった時に、長門(下関)に領地を与えられた歴史のある藩(5万石前後)。

 忠臣蔵の事件の時に、赤穂浪士10人の身柄が預けられ、最後はここで切腹している。江戸の長門長府藩毛利家の菩提寺は芝の泉岳寺で、それが縁で赤穂浪士の墓は泉岳寺に納められた。

 明治になると土地の分割が進み、一部が第三高等女学校(現在の都立駒場高校)となる。同校が駒場に移転した後は、ニッカウィスキーの工場となる。その後テレビ朝日に権利が移る。

 森ビルが周辺の地権者をとりまとめ、再開発事業を行い、2003年に六本木ヒルズが完成。敷地内の回遊式庭園は、かつての毛利庭園に由来している。

2.東京ミッドタウン:長州藩毛利本家の下屋敷

 最初に幕府から拝領した土地は2万7000坪で、その後周辺土地を買い増し、3万6000坪に達した。幕末の禁門の変の後に、責任を取らされ下屋敷は没収された。長州藩の上屋敷は、霞が関の法務省と日比谷公園の北西部辺りにあった。

 明治維新後は、陸軍御用地となり、やがて陸軍第一師団歩兵第一聯隊の駐屯地となる。

 戦後は米国に接収されるが、1960年に日本に返還された。陸上自衛隊の駐屯地となり、防衛庁の本庁舎も設置された。2000年に市ヶ谷駐屯地に防衛庁が移転し、その後に再開発で完成したのが2007年竣工の東京ミッドタウン。

3.国立新美術館:宇和島藩伊達家の上屋敷

 明治維新後、陸軍省用地となり、その後第三聯隊の駐屯地となる。第一聯隊と第三聯隊の集結する六本木(麻布区)は帝都陸軍の中心となった。

 東京ミッドタウンと同時期に国立新美術館が完成。顧客の回遊性が広がり、六本木の商業性向上に貢献した。

 国立新美術館の前庭に、歴史的建造物で旧歩兵第三連隊兵舎が一部分保存されている。第二次世界大戦後は東京大学生産技術研究所等として使われていた。その後研究所が駒場に移転し、取壊し予定であったが保存を望む声が大きく、一部分を残した。昔ここが二二六事件を起こした陸軍第三聯隊の駐屯地であったことも説明されている。二二六事件を起こした将校たちが、原隊に復帰していく写真も展示されている。

4.赤坂TBS:広島藩浅野家の中屋敷

 明治維新後、ここも軍隊の施設である近衛兵歩兵第三聯隊の駐屯地となる。戦後は珍しく米国に接収されずに、TBSなどに払い下げられた。

5.明治になったからの六本木

 日本陸軍の中心地となった六本木周辺には、芸者遊びをする施設も多数できていった。その代表が赤坂の花街(かがい)である。江戸時代も非公認の繁華街(岡場所)であったが、明治以降六本木に集まった軍人、政治家が利用し、最盛期には芸妓400名が在籍していたという。 赤坂などの高級料亭で遊べない一般軍人は、麻布十番に行き飲食、遊行を楽しんだと言われている。

六本木周辺の飲食の歴史は、明治以降の軍隊の影響が大きいことが改めて勉強できた特集でした。 

追記1 スマップ草薙君が2009年に酔っぱらって全裸で騒いで問題になったのが、今は東京ミッドタウン内にある檜町公園。その事件を知って、当時総務大臣だった鳩山邦夫氏が放った言葉が「最低の人間だ」。地デジ移行へのCMでメインキャラクターを担当していたので、それが腹に据えかねたのでしょう。しかしその後の兄・鳩山由紀夫氏の行動、言動の方が数千倍最低だと思っています。

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