2015年10月22日(木)

スバル360を作った百瀬晋六

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 今から40年以上前の私が小学生、中学生時代には、町の至る所で「てんとう虫」と呼ばれた「スバル360」が走っていました。VWビートルを小さくした感じの丸くて愛らしい軽自動車。そのスバル360を開発した責任者・百瀬晋六氏をBS朝日の「昭和偉人伝」で取り上げていました。

・スバル360が発売されたのは東京タワーが完成した昭和33年、皇太子が美智子妃殿下と結婚した年。全長約3m、幅1.3m、高さ1.38m。コンパクトボディながら、エンジンを後方に置くことで大人4人が楽に乗れる空間を確保。空冷式360CCエンジンで性能も良好。庶民にも手が届く日本で最初のマイカーと呼ばれた車であった。

・スバル360を開発した富士重工は、戦前は軍用飛行機を開発する巨大メーカー中島飛行機が前身。戦後はGHQに飛行機の製造、研究の一切を禁じられ、バス、スクーターを作る会社・富士産業として再スタートした。バス設計に携わっていたのが、東京帝国大学出身で戦前に戦闘機「誉」のエンジン設計を担当していた百瀬晋六氏(1919年生まれ)。

・当時のバスは重いシャシー(車台)の上に、ボディを載せていた。これを飛行機屋の発想でモノコックボディを採用した。モノコックとは外板の板材だけから成る構造(卵の殻のような形状)で、軽量化ができる。百瀬が設計したバスは性能が良く評判となる。

・昭和26年に専務だった松林氏から富士重工として自動車を作りたいと打ち明けられ、自動車開発の責任者となった。しかし当時の富士重工には自動車を作ったことのある技術者は誰もいなかった。百瀬が部下に言った言葉は「先に絵を描け。良い絵は良い自動車になる。」と言う教えだった。自動車開発を秘かに推進することになったメンバーは日比谷図書館に行って外国の文献を調べたり、色々な自動車を見よう見真似で調査していった。

・苦労しながらも試作を繰り返し、昭和29年に6人乗り、1500CC、55馬力の試作車をようやく完成させた。昭和28年に旧中島飛行機系6社が合併してできた富士重工は6社が集まった星をスバルのマークとして使っており、新しい試作車も「スバル1500」と名付けられた。ところが自動車作りの先導役だった北社長が急に亡くなり、資金難もあり車開発がストップ。スバル1500は日の目を見ないまま、幻の車となってしまった。

・時を経て徐々に戦後のダメージから立ち直りつつあった日本。昭和30年に入るとトヨタが「トヨペットクラウン」1500CC、6人乗りを100万円で販売を始めた。当時の100万円は庶民の年収の5倍で高値の華だった。

・百瀬たち富士重工も、庶民にも手が届く車を作ろう。小さい車でも乗り心地は最高の車にしようと、再び車作りにチャレンジ。百瀬が示した思想は、「機械は人間にサービスするものである」とし、狭くても人間が狭さを感じない設計を目指した。足元を抜いて前輪の上くらいまで足を伸ばせる。このためにエンジンは前方ではなく後方に置く。フロントボンネットに空気が入る穴を設け、走行中の車内に外気が入り冷やせるようにした(手動式で雨や寒い時期は閉めておく)。

・開発の目標として、下記の4点を掲げた。①大人4人がゆったり乗れる車、②悪路でも時速60kmで走行できる車(当時は今では考えられない未舗装のガタガタの道)、③重量350kgで快適な走り(当時ライバルのスズキ自動車の軽自動車スズライトが520kgの重量)、④販売価格35万円。

・「出来ねえと言う奴はやる気がねえからだ!」と言うのが百瀬の口癖。軽量化にあたって考えて、考え抜いて独自の設計を見出した。当時の自動車はシャシーのフレーム工法が主流であったが、最初からモノコックボディで軽量化を目指した。当時0.8mm厚の鋼板を使っていたが、より軽い0.6mm厚の鋼板を使おうとなった。ただ従来の設計ではペラペラすぎて自動車のボディに使えない。この時に考え抜いた部下が、卵の殻と同じ丸身を帯びたデザインを提案。薄い鋼板で強度を増すために丸みのあるデザインが構造上有利だった。この丸い感じのデザインがスバル360の原型となる。他にも屋根は鉄ではなくFRPを使い、リアウィンドウはガラスではなくアクリル板を採用した。これらの努力で何とか重さ350kgを達成。

・でこぼこ道での快適な走行も課題だった。ゆったりした空間デザインにしていたため、ボディと車軸の間に空間が少なく余裕のあるクッションを採用できなかった。トーションバー方式を採用するもサスペンションが折れてしまう。バネメーカーの協力もあり、鉄の強度を上げることで狭い空間でもでこぼこ道に対応できるクッションシステムを作り上げた。タイヤもブリジストンの協力で、新しい細身の規格の10インチタイヤを開発してもらった。

・エンジンはリア(後方)に設置。エンジンも軽量化、小型化に努めた。当初は失敗だらけのエンジンも飛行機屋の技術力で、キャブレターにパイプを取り付けることなどで出力が強まった。

・リーダー百瀬は強引に引っ張るタイプの人間ではなく、考えて、考えて慎重に行動するタイプの人間。黒板に一つ一つ説明し、確認をしながら作業を進める。部下にも考え抜くことを求めた。技術的に反対の意見が出ると、「駄目だと言う前に、駄目なら駄目の説明を俺にして説得してくれ。」と部下に指示。現場で行き詰ると周りの技術者大勢を集めてその場で延々と議論し、解決策を見出していく。この議論が延々と続き、部下からは親しみを込めて「ミスター エンドレス」とあだ名されていた。皆を集めて酒を呑むことも大好き。でもその場の話しも自動車作りの話しを延々とする。そんな百瀬を部下たちは信頼し慕っていた。

・こうして出来上がったのが名車「スバル360」。幻となってしまったスバル1500の後継として百瀬が名前を付けた。

・富士重工のテストドライブは、群馬県赤城山を上る過酷な山道を選んだ。しかしエンジンが壊れたり、クラッチが壊れるアクシデントが続く。また傾斜のきつい坂道でエンジンがオーバーヒートして止まってしまった。他社の自動車のほとんどがこの坂でオーバーヒートでエンストを起こしていた。百瀬たちはエンジンをより効果的に冷やす方法として、空冷式を採用し、またリアボディ両側に空気孔を設けることでエンジンが冷えやすいように改善を行った。

・やがて赤城山の山道の難所もオーバーヒートすることなくスイスイ上がれるようになり、運輸省の公道テストを箱根山道で行った。麓から山頂まで30分で合格の試験を22分でクリア。これにより晴れて新車として販売が可能になった。価格だけは当初目標の35万円をクリアできなかったが、42.5万円で販売ができた。当時の公務員の年間給与1年分の金額。スバル360は販売すると爆発的に売れ続けた。第1号車の完成度は高く、販売後12年間はモデルチェンジが行われることが無かった。

・当時の技術者たちが後に「百瀬語録」という手書きの小冊子を作成。百瀬が技術陣に語った言葉が網羅されている。「行動を起こす前に、考えて、考えて、考え抜け」等々。思考力に終わりのない人・百瀬晋六は平成9年に77歳で亡くなる。

 概略かような内容でした。それにしても自動車作りをしたことが無い人達が名車スバル360を作り上げたというのは大したものです。飛行機を飛ばす高い技術力が土台にあったのでしょうけど、最後まで完成させるんだと言う終戦直後の技術者の執念を感じます。

 番組では百瀬氏の部下だった室田さんが、その当時の百瀬氏の話を富士重工現役社員に講演していると語っていました。北米でカーガイに圧倒的支持を受け、売れに売れまくっている富士重工のレガシィ、フォレスター、アウトバック。その車作りを支えているのは、百瀬晋六さんたちが築いてきた設計思想、技術者としての心得なのだと思います。その語り部がいる富士重工には大いに頼もしさを感じます。

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