2016年9月25日(日)
青森市の三内丸山遺跡
仕事で行った青森でもう1泊してどこに行こうかと思案しました。浅虫温泉もこれといって見て楽しむところではないようだし、新幹線で函館に行っても函館市内に行くのは時間が掛かるし。そこで行くことにしたのが、15年前にも一度行ったことがある三内丸山遺跡に決めました。
JR青森駅前のバスターミナルから、バスに乗り30分くらいで行くことができます(青森駅からは約7km、新青森駅だと近く約2.5km)。白いモダンな建物「青森県立美術館」の次が終点の三内丸山遺跡です。そこにも遺跡現場とは似つかわないガラス張りの近代的建物「縄文時遊館」が入口付近に出来ていました。
入館料はなんと無料!公園的扱いなんでしょうけど、無料で良いのかな?そう言えば佐賀県の吉野ケ里遺跡も無料だった。中に入るとちょうどボランティアガイドさんが案内してくれるというので、約15人くらいの集団でガイドさんに付いていきました。ガイドさんに聞いた内容とHP内容とでまとめてみます。
・三内丸山遺跡の特徴は、長く、大きかったこと。今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていた。縄文時代に1500年物間1か所で人々が暮らしていたというのは、世界でも極めて稀である。人数的には500人くらい住んでいたと言われる。農耕が既に始まっていた吉野ケ里遺跡でも人数は500人くらいと言われているので、縄文時代の遺跡として極めて大きかったことが分かる。
・三内丸山遺跡はすでに江戸時代から知られ、遺跡に関する1623年の古い記録も残っている。本格的調査が始まったのは、平成4年度から始まった県営野球場建設に先立つ発掘調査。この時に、前例のない巨大な集落跡が姿を現し、膨大な量の土器や石器などの生活関連遺物や土偶などの祭祀遺物が出土した。
・平成6年7月、直径約1メートルの栗の巨木6本が検出、縄文時代中期の大型掘立柱建物跡が発見された。これをきっかけに、遺跡の保存を求める声が沸き上がった。青森県は遺跡の重要性を考慮し、途中まで進めていた野球場の建設工事を中止し、遺跡の永久保存を決定した。
・その後も遺跡の解明と整備・活用のために、三内丸山遺跡対策室が毎年継続して発掘調査を行っています。これまでの調査で、遺跡全体の約40%の確認調査が行われた(まだ、60%も未解明で今後も調査が続く)。平成14年11月に三内丸山遺跡のビジターセンターとして「縄文時遊館」がオープン。平成15年5月三内丸山遺跡の出土遺物1,958点が重要文化財に指定された。
・通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。この板状の土偶は、祭祀用でありまた子供のおもちゃのような物であったのだろう。
平べったい土偶
・三内丸山遺跡が栄えた約5000年前は、現在より2.0℃ほど温暖化して栗なども沢山実っていた。三内丸山が何故歴史から消えたか理由はわかっていない。しかし,4200年前に突然寒冷化(2.0℃)したため、人々は遺跡を放棄し、散逸したと考えられる。同時期で東アジアの文明も乾燥や寒冷化のため衰退したことが分かっている。
・この時代、当然鉄はないので石器で木を切っていた。直径15cmくらいの木を切り倒すにも何時間も掛かる。大型掘立柱建物跡で使われている栗の木は、直径が1mある栗の木を石器で切り倒すのは何日掛かったか分からないくらいの重労働だったはず。こんな巨木の栗の木は日本にはないので、今ここで復元されている直径1mの栗の木はロシアから譲り受けたものである。
三内丸山遺跡のシンボル 直径1mの栗の木でできた大型掘立柱建物跡
・縄文時代の人たちは狩猟民族で弥生時代の人たちは農耕民族と考えがちだが、三内丸山では栗の木等が計画的に栽培されていたことが分かってきた(農耕的暮らしもあったことで、一か所で長く暮らせたのだろう)。狩猟で暮らしていたと聞くと、イノシシや鹿、熊を食べていたと考えがちだが、9割はウサギなどの小動物であった。当時は青森湾がすぐ近くだったので魚釣りも行っており、釣り針も多数出土している。
縄文時遊館で展示されていた5500年前の釣り針
・火を使えることで、食べ物を柔らかく煮ることができるようになった。煮るためには鍋が必要であり、土鍋用として土器が発達した。大型掘立柱建物を組み立てるのに、横に入れる木にほぞ(柱を入れる穴)を設けている。固い木に石器で穴を開けるのは大変なので、おそらくお湯をかけて木を柔らかくして掘っていったものと考えられる。
・集落内では、貝などのごみを捨てる場所、死者を弔う場所がしっかり決められている。墓場は住居ゾーンから離れた場所にある。ただ、乳幼児のお墓だけは住居ゾーンのすぐ近くに設けられている。乳幼児を弔う小型の甕に納めてあり、母親の暮らすそばで弔っていたと考えられる。
・冬場は寒さも厳しいので、春夏秋は竪穴式住居の家で暮らし、厳冬時には集団で暖を取れる大きな建物内に暮らしたとも考えられる。
・三内丸山遺跡から出土する遺跡で次々色々なことが分かってきた。この地域では取れないメノウ石やヒスイなどが見つかっている。成分分析でどこの地域の石かも分かってきた。従って三内丸山の人たちがかなり広範囲で行動し、他の集落の人々とも交流があったことを示している。
1500年もの間一か所に定住していた三内丸山の人たち。栗の木を栽培し、釣り針で魚を釣り、遠くまで行って物々交換をしていた。今まで知らなかったことを学べた有意義な一日となりました。
追記 三内丸山遺跡のすぐ近くにあるモダンな建物「青森県立美術館」。その中で一番人気が、奈良美智氏の通称「あおもり犬」。弘前にいる奈良氏作品の「ひろさき犬」に比べると相当大きい。
弘前出身の芸術家奈良美智氏作の通称「あおもり犬」
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