2012年11月12日(月)

新宿の歴史と新宿にあったムーランルージュ

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

丸ノ内線「四谷三丁目」駅から徒歩7、8分に「新宿区歴史博物館」があります。新宿区の施設なので特段大きい施設ではありませんが、江戸時代の宿場町だった「内藤新宿」の街の模型とか、明治・大正・昭和の新宿駅界隈の歴史変遷を楽しめます。

江戸幕府が出来た当初の新宿は、信濃高遠藩主の内藤家の中屋敷や旗本の屋敷があったところです。江戸初期は高井戸が甲州街道の一番目の宿場町でしたが、ちょっと遠いのでその途中の新宿が宿場町となりました(1698年)。成木街道(今の青梅街道)との分岐点(追分)だったということもあります。

宿場町は、旅人が宿泊する場所が本来の目的ですが、徐々に大人の遊び場、歓楽街として栄えて行きます。内藤家の屋敷があった新しい宿場町なので「内藤新宿」と呼ばれます。お江戸日本橋から2里弱の距離と行楽で行くには良い距離です。娯楽の少ない江戸時代に、1泊で見世物小屋を見学し、博打をして、酒を呑んで、女性と遊ぶ。こんな楽しい場所は無いと言うことで、宿場町というより岡場所(色町、女性と楽しめる歓楽街)として、どんどん賑やかになって行きました。

日本橋から最初にある宿場町は

・東海道の品川

・日光街道・奥州街道の千住

・中山道の板橋

・甲州街道の新宿

ですが、どこも歓楽街として賑わって行きます。甲州街道方面への旅人は他の街道に比べれば少ないので、特に新宿ではその傾向が強かったようです。

やがて江戸から明治・大正になり、東京の人口も激増して行きます。人が増えれば住宅が不足しますので、人を大量輸送できる鉄道網が郊外に延びて行きます。新宿駅からも甲武鉄道(今のJR中央線)が新宿~八王子間で1889年に開業します。その後も、京王電気軌道(今の京王帝都)が1914年、小田急電鉄が1927年と続きます。西武新宿線は1927年に高田馬場までは来ますが、新宿まで伸びるのは1952年です。鉄道網が郊外へ郊外へと延伸し、それに合わせて新宿で乗り換えする通勤、通学者が増加します。

サラリーマンは勤務の後に、流行りのカフェ(女給さんが相手をしてくれるキャバレーの走りみたいなもの)で一杯やってから帰宅する。ちょっとお金がある勤め人の奥様方は旦那さんが仕事に行っている間に、デパートで買い物を済ませ、高野フルーツパーラーでお茶をしたり、中村屋のカレーを食べて帰る。そういう生活風景の写真が、歴史  博物館に展示されています。そうか、新宿の娯楽文化は、戦後急にできたものではなく、明治、大正の変遷の上にできたものなのか。もっと振り返れば、江戸時代からの宿場町の歴史が土壌を育んでいたのかも知れない。

文化の面でも映画館や芝居小屋ができ、勤め帰りのサラリーマンや、学生が芝居を観にいく習慣が育ちます。その芝居小屋の一つに、「ムーランルージュ」があったと展示されています。本場パリのムーランルージュ(Moullin Rouge、赤い風車の意味)は、歌やコント、若いお嬢さんのショーダンス(上半身はトップレス)を食事をしながら楽しむ場所ですが、新宿のムーランルージュは現代劇を演じる劇場でした。

新宿駅南口から東に出て直ぐの新宿3丁目36-16(現・新宿国際会館ビル)に昭和6年にオープン。浅草で活躍していた島村竜三が新宿に進出し、看板女優高輪芳子を要して、時代にあった軽演劇、レビューを演じて大人気だったそうです。昭和10年頃が一番人気が高かったようですが、第二次世界大戦を挟んで、昭和26年に閉館しています。

新宿が東京でも一、二の繁華街であり、雑多な文化の香りが何故残っているのか?新宿界隈の変遷を知ることで、何となくその一端を垣間見た思いがします。

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