2015年2月26日(木)
終戦へ導いた名宰相 鈴木貫太郎
NHK「歴史ヒストリア」で平成27年2月25日放送された「天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎 太平洋戦争最後の首相」は、大変勉強になる内容でした。戦況が悪化したから必然的に終戦になったのではなく、当時の最高指導者たちの終戦へ導く意思、胆力があったからこそ、無事に終戦を迎えられたと再確認できました。
当時77歳で首相になった鈴木貫太郎、鈴木首相と厚い信頼関係にあった昭和天皇、軍部の意向で表向き戦争継続を主張しつつも鈴木首相に忠実であった阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、終戦に向けて努力し続けた東郷茂徳外相等。550万人の一大勢力であった日本陸軍の戦争続行の意思を巧みに押さえつけ、最後の本土決戦を免れることができたのは、これら最高指導部の政治力の賜物だったのです。
鈴木貫太郎は、海軍大学校を卒業して海軍軍人となり、後に海軍大将、連合艦隊司令長官にまで上り詰めます。昭和天皇と親交があり信頼されていたのが縁で、1929年に予備役となり侍従長(天皇秘書官のトップ)に就任。侍従長の時に陸軍急進派に「君側の奸」として狙われ、1936年の二・二六事件の軍事クーデターで襲撃されました。何発も銃弾を喰らいながらも奇跡的に一命を取り留め、枢密院議長を経て、1945年(昭和20年)4月に第42代首相となります。
①連合艦隊司令長官まで上りつめた海軍時代
千葉県野田市の幕府側藩士の代官の息子として明治維新である1968年生まれる。1898年に海軍大学校を卒業。海軍大学校出のエリートではあるものの、当時の海軍は旧幕臣側は冷遇され、薩摩などの官軍出身者が厚遇されていた。1904年の日露戦争の黄海海戦、日本海海戦で駆逐艦隊長として華々しい戦果を上げ、その後は出世を重ねる。1923年に海軍大将、1924年に連合艦隊司令長官となる。
②侍従長就任と二・二・六事件での暗殺未遂
軍人を予備役として引退後、1929年に昭和天皇に懇願され侍従長に就任。元々軍人は政治に関わらないと言うのが信念だったが、昭和天皇自らの要請であり就任することとなった。奥さんのたかは、昭和天皇の幼少時代の養育係でもあり、天皇にとって二人は信頼厚い特別な夫婦だった。侍従長になった後は、宮中業務は経験豊富な侍従に任せ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹した。ロンドン軍縮会議などで日本の軍備縮小に反対する勢力を説き伏せて軍縮に持って行ったことで、陸軍急進派からは「君側の奸」として狙われることになる。
1936年の二・二六事件で、自宅に押し掛けた陸軍青年将校達にピストルで撃たれる。最後に首謀者の一人・陸軍大尉安藤輝三がとどめを刺そう軍刀を抜くと、妻たかが「とどめだけはどうか待って下さい」と叫び、安藤大尉はこれを聞き入れた。「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃。」と号令し去っていった。瀕死の重傷ではあったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れ、頭部の弾丸が貫通して耳の後ろから出たことで、奇跡的に命を取り留めた。
③第42代首相就任と終戦まで
戦況も悪化し終戦の年の昭和20年4月に小磯國昭の後任として第42代首相に就任。軍人は政治に関わらないという心情の鈴木に対し、昭和天皇は「この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。どうか曲げて承知してもらいたい」と頼み、鈴木は受諾。
戦況は益々悪化し、8月になり、原爆投下とソ連参戦という事態に。いよいよ、連合国の「ポツダム宣言」受諾による降伏を検討せざるを得なくなる。しかし550万人を抱える巨大組織である日本陸軍は、なおも徹底抗戦を主張。下手に力で抑えつけようとすると、陸軍による暴発(クーデターの危機)、二・二六事件の再来の危険もあった。
昭和天皇を交えての御前会議が開かれるも、早期終戦を主張する鈴木首相・東郷外務大臣と、本土決戦を主張する阿南陸大臣との間で結論が出ない。鈴木首相は、極めて異例である天皇の決断を求めることになった。昭和天皇が発した言葉は、「外務大臣の意見に賛成である。」であった。しかしこれは、天皇の戦争責任に繋がる極めて危険な選択だった。天皇の言葉で終戦になるのであれば、戦争は天皇の力でもっと早く終了させられたのではないかと。
それでも、陸軍大臣阿南は最後まで無条件降伏に反対を主張。主戦派の陸軍を見ながら、すぐには降伏に同調できなかった。阿南が鈴木首相と歩調を併せれば、陸軍のクーデターがありうる。昭和天皇も鈴木首相もこれを恐れた。
このギリギリの状況下で、8月14日に再度御前会議に出席してもらえるよう鈴木首相は天皇に要請し、天皇はこれを受諾。最高主導部メンバーが招集された。昭和天皇は「戦争を継続することは玉砕に至るのみ。反対の者も是非自分の意見に賛成して欲しい」と要請。阿南陸相も含めて終戦の閣議に賛成した。
この閣議決定に陸軍は「阿南、変節」と激怒した。御前会議完了後、阿南陸相は鈴木首相を訪ね、「私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。」とお詫びに来た。元々鈴木首相は阿南陸相の人柄をよく知っており、自分の意見ではなく陸軍の意見で物を言わねばならなかった阿南の立場をよく理解していた。鈴木首相に挨拶した数時間後に、阿南陸相は割腹自殺で世を去る(陸軍幹部を黙らせる手段であったのだろう)。
鈴木首相は、一度ならず二度までも天皇に決断を仰ぎ、天皇の聖断と言う形で終戦に導きました。後ろで圧力を掛ける陸軍を見ながら、表向き陸軍を立てつつ暴発を抑えた阿南陸相。終戦後どういう形で日本を連合国が統治するかの情報を最後まで収集した外務省。決して無能な指導者がいて、ずるずる敗戦になったわけではなかったのです。
終戦後、昭和天皇はこう言ったそうです。「私と肝胆相照した鈴木であったからこそ、出来たのだ」と。
追記 鈴木貫太郎は、終戦後に千葉県野田市関宿で晩年を過ごしました。この地に「鈴木貫太郎記念館」があるそうです。すぐに行こうと思ったのですが、どこの駅からも遠く不便そうな場所なので、行けるのは当分先になりそうです。
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