2015年4月22日(水)
津軽三味線と悲しい歴史
青森県五所川原市の金木町(かなぎまち)。太宰治の生家である津島家の「斜陽館」が有名です。この斜陽館の設計・工事をしたのが、弘前の名棟梁・堀江佐吉です。堀江佐吉と言うと木造の疑似洋館風建物が有名ですが、斜陽館のような和風建物も当然作っています。斜陽館は財力を任せた津島家がヒバ、ケヤキをふんだんに使って作られています。
斜陽館 設計施工は堀江佐吉
この斜陽館そばに、平成12年にオープンした「津軽三味線会館」があります。津軽三味線に全く興味もなく、斜陽館と共通券になっていたので取りあえず見学に行きました。行くと1時間ごとに生で演奏してくれる時間になり、ホールに津軽三味線を聞きに行きます。平日金曜日の14時で、観客数は我々を入れて6人。一生懸命演奏してくれましたが、まあこんなものかと言う感じ。正直、伊奈かっぺいの東京公演で一緒に来る人や、吉幾三の伴奏お供で来ている人たちの方が迫力はあります。
その後、ぶらぶらと三味線会館の展示物を眺めていると、知らなかったことが色々書いてありました。金木が津軽三味線の発祥の地だと書いているのです。本当だろうか?
1.津軽三味線のメジャー化に貢献した三橋美智也
最初に目が付いたのは、三橋美智也のコーナーです。私が知っている三橋美智也は“真面目な民謡歌手だったのが、バブル時代に自ら「ミッチー」と名乗り、熱海にリゾートホテルを作るなどちょっと浮かれたおじさんになった” との認識です。その三橋美智也が、津軽三味線をメジャーな存在に上げた功労者だと言うのです。
・三橋美智也は若い時旅芸人団に所属し、盲目の津軽三味線の名手・白川軍八郎に師事した。後年、三橋美智也が数々の大ヒットを出し超売れっ子となり、昭和34年に日劇での「三橋美智也民謡生活20周年記念リサイタル」を開催。この時、三橋美智也が恩師・白川軍八郎を東京に呼び寄せ、津軽三味線を演奏させた。それまで一部の愛好家にだけ支持されていた津軽三味線が、日本全国に知れ渡るきっかけになった。同時に津軽三味線の神様とされた白川軍八郎も世に広く知られる存在となった。その3年後の昭和37年に白川軍八郎は死去。
そうなんだ。バブル時代にサタディーナイトフィーバーのジョントラボルタの真似をして、白いスーツで片腕を突き上げていたミッチーは、津軽三味線の世界ではそんな偉大な存在だったのか!
2.瞽女(ごぜ)、ボサマ(坊様) 目の見えない人の救済策としての三味線
・津軽三味線の楽曲の原型は、新潟地方の瞽女(ごぜ)の三味線と言われる。徳川時代初期に、目の見えない女性の救済策としての三味線が奨励された。徳川家康の生母が眼病に患い、これが盲人保護政策の因になった。瞽女とは、「盲御前(めくらごぜん)」が語源。新潟で瞽女の仕組みができあがり、長岡藩の長岡瞽女、高田藩の高田瞽女などに分類される。
・やがて、北前船によって日本海側各地の音楽が津軽に伝わり、津軽民謡は独特の発達をみる。三味線は津軽地方ではボサマと言われる男性視覚障害者の門付け芸として長く蔑まれていた。門付け(かどづけ)とは、日本の大道芸の一種で、門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能、演じ手の総称。江戸時代の盲目の人達は、生きていくために按摩(あんま)になるか、芸人(楽器演奏者)になるほかなかった(越後ゴゼや琵琶法師等)。
・そんな芸人達を津軽ではボサマ(坊様)と呼び、ホイド(物欲しがり、乞食的ニュアンス)と同じ意味合いで使ってた。ボサマと呼ばれた盲目の楽器演奏者達は、蔑まれながらも一生懸命芸を磨き精進した。三味線、横笛、尺八、唄、語り、できることはなんでもやった。その中でも三味線は後に津軽三味線に昇華していった。
平家の怨霊が出てくる耳なし芳一も盲目の琵琶演奏者。医療技術が全くなかった時代では今と比べられないくらい多くの盲目の人がいたのでしょう。白川軍八郎も5歳で疱瘡(天然痘)を患い失明したと書いてあります。その盲目の人たちの生きていく術が三味線、琵琶だったというのですから、実話の悲しさがあります。
3.津軽三味線の始祖と呼ばれる仁太坊(秋元仁太郎)
諸説あるようですが、津軽三味線の始祖は、幕末に五所川原の金木地区に生まれたボサマ「仁太坊」(にたぼう)だと言うのです。それまで地味な門付け芸だった三味線音楽に、ばちで叩きつけるような打楽器的要素の革新的な奏法を取り入れ、津軽三味線の原型を築いたというです。
・仁太坊は幕末の1857年生まれで、士農工商の下のクラス出身だった。8歳の時に重い病にかかり、失明する。今までの三味線奏法の常識を打ち破り、力強い「叩き奏法」など独自の奏法を編み出した。民謡の伴奏楽器でしかなかった三味線を、独奏楽器へと変えた。昭和3年に71歳で他界。
・お祭りがあればその神社の境内にはずらりとボサマ達が並び、互いの腕を競い合うかのように三味線を演奏していた。そんな環境の中、津軽三味線草創期の名人と呼ばれる人々は、他のボサマより目立つために、より大きな音・派手な技を追求するようになる。本来は単なる伴奏楽器として、観客に見えぬよう舞台袖で演奏三味線が、時代が経つにつれて三味線のみで演奏する前奏部分(前弾き)が独奏として独立していった。この功労者が仁太坊だった。
4.仁太坊に続く津軽三味線の有名演奏家
・白川軍八郎:津軽三味線の神様とされた。白川軍八郎は4歳の時に疱瘡(天然痘)に罹り失明。9歳のときから5年間、当時60歳だった仁太坊の内弟子になる。仁太坊の元で演奏技術を受け継ぎ、「神様」と呼ばれるほどの超絶テクニックと音楽性で、現在の津軽三味線の演奏スタイルの原型を作りあげた。三橋美智也の三味線の師匠でもあった。昭和37年興行先で患い入院。病院先で友人であった高橋竹山に看取られて53歳で死去。
白 川 軍 八 郎
・高橋竹山(たかはしちくざん)。3歳の時に麻疹をこじらせて半失明する。三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部、北海道を門付けした。昭和38年に史上初の津軽三味線独奏レコード「源流・高橋竹山の世界~津軽三味線」を発売。これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名声を得る。青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリーが放送され、世間一般に名前を知られるきっかけとなる。昭和48年に渋谷ジァン・ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで、若い世代にも竹山の名は知られ津軽三味線ブームのさきがけとなった。平成10年2月に喉頭がんで死去。
高 橋 竹 山
追記 藤圭子は浪曲歌手の父と三味線瞽女だった母との間に生まれ、旅回りの生活を送っていたところ、歌謡大会で歌っていたところをレコード会社関係者にスカウトされました。18歳くらいで醸し出していた独特の雰囲気は、生まれ育った環境が作り上げたものだったのですね。
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