2015年5月25日(月)

江戸・東京 歴史の散歩道Ⅰ

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 歴史の散歩道(街と暮らし社)を読み、面白そうな話題をまとめてみました。

①江戸の町と三大祭

江戸時代、「神田明神祭」と「山王権現祭」とは「天下祭り」と言われ、幕府公認の祭りで“江戸の華”であった。どちらの神社も江戸の鎮守神として、将軍家から町人に至るまで信仰を集め、祭りは盛大を極めた。

山王祭は6月15日に行われる。山王様の使いが猿のため、猿の作り物が多い。行列は永田町を下って、半蔵門から江戸城に入り、将軍家が吹上御苑でこれを見物した。神田祭は9月15日に行われる。山王祭に遅れること73年、町人の祭りとして年々盛大になり、やがては山王祭を凌ぐようになった。二つの祭りがあまりに費用が掛かる為、幕府は1681年以降は隔年で祭りを行うように定めた。それ以降は2年毎に祭りが行われている。

上記2つの祭りに「深川富岡八幡宮の祭り」を加えて、江戸の三大祭と言う。深川一帯は江戸初期に大阪から来た深川八郎右衛門らが浅瀬を開発。1624年に八幡宮をここに勧請し、祭りが行われるようになった。神輿を担ぐ人に深川芸者が水を掛けるので「水かけ祭り」とも言われた。江東の低湿地帯に築かれた深川の祭りは、地方から江戸に集まってきた庶民の下町の祭りであった。

②江戸の掘割

江戸幕府は掘割を沢山作った。内堀、外堀、道三堀、八丁堀など。その目的は1)江戸城防備と言う軍事的理由 2)洪水の被害から城や屋敷を守る為 3)運河として交通や物資の運搬用に使うことにあった。

江戸城をぐるっと囲む外堀で、一番の工事の難所だったのが本郷部分(現在の御茶ノ水駅辺りの堀)。江戸城は本郷からは陸続きで防備が弱い。2代将軍秀忠が伊達正宗と将棋を指していた時に、正宗が王手を掛けようとしたときに「本郷より入らん!」と声を出し、その内容に秀忠がギクッとしたと言う逸話もある。

この難所の工事は伊達仙台藩中心に掘割工事が割り当てられ、1615年から1654年の39年間に渡り工事が行われた。こうして神田堀(神田川)ができあがった。仙台藩が工事の中心だったので仙台濠とも呼ばれる。掘った土は東京ドーム周辺の沼地の埋立に使われ、水戸徳川家の上屋敷となった。

濠の完成後は、北側が湯島、本郷と呼ばれ、南側が駿河台と呼ばれるようになった。東京の下町商業地と西部の山の手が神田川という水運で結ばれるようになり、以後山の手の開発が大きく進む動脈となった。

③四谷の荒木町

江戸時代は松平摂津守屋敷があった。摂津守(せっつのかみ)を縮めて、「津の守坂」通りと呼ばれるようになった。屋敷の中央の窪地には庭園が造られ池があった。明治の初期には西側の台地から湧き出た水が滝となり、滝見の茶屋がで行楽の人気スポットとなる。その内に料理屋が建ち並び、やがて三業地(待合、料理屋、置屋)として発展していく。現在は滝は無く、小さな池だけが残っている。

荒木町のメインストリートが車力門通り。この西側に平行する通りが柳新町通り。戦災で焼けるまでは西側に芸者屋と料亭が建ち並んでいた。花街には「橘屋」、「奈る駒」、「蔦の屋」等の料亭があった。そこにいた芸者衆は、「津の守芸者」、「荒木町芸者」と呼ばれ最盛期には100人ほど在籍。検番は今の金丸稲荷の場所付近にあった。

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